お疲れサーマント

黄巾族さん向けに書いています

一月十四日

 私はイルカの声が鳴る目覚まし時計を持っている。大学の友人から貰ったものだが(何故かお金は徴収された)、以前使ってあまりに寝ざめの悪い朝を経験したために、倉庫にしまっておいたのだ。イルカの超音波が再現されているのか、何なのか。恐らく脳に多大な影響を及ぼしているに違いない。見ていた夢が海に関連した夢に塗り替えられていく感覚が恐ろしくて目を覚ます。そして鳴りやまないイルカの声がずんずんと音量を増していって、精神的な不安の臨界点に達した瞬間にガバと布団を蹴り上げて起きるのである。三日試して三日とも同じ起き方をしたので間違いがない。ノイローゼになってしまう。これじゃあ、明日の朝に目覚ましを止めるまで寝られない!と、倉庫へ仕舞い、厳重な封印を施したのであった。

 

 しかし、早起きの習慣を身に付けるために、イルカ時計ほどうってつけのものはない。朝六時半にアラームをセットして、期待と緊張、大分のトラウマを胸に眠りに就いたのであった。

 

 手短に言うと、早起きに失敗した。厄介な青色の目覚まし時計が床に投げ出されていたことから、一度は目を覚ましたことが伺える。なんとなく記憶の断片を繋ぎ合わせると、以下のような夢を見ていたに違いない。

 

 「私は切ない通勤者の背中を見届けるために、早起きする決心に燃えている!結果として、健康に繋がれば一石二鳥である!」私は昨日の日記の通り、斜に構えた決心で起きる準備があった。しかし夢の中は不自由なもので、意識がはっきりしていても外界に飛び出す手段は持たないことが多い。つまり明晰夢である。陰影を伴った夕焼けの、不安なグラデーションで満たされたような奇妙な空間で、ぼけーと朝が来るのを待っていた。やがて、グラデーションの暗さが取れてきたことで、直観的に朝が来たのを感じた。もう少しで起きられると確信した瞬間に、天使と悪魔が囁いた。

 

悪魔「辛い出勤に苦しむ会社員のとぼとぼした行進は見ものだ!さっさと起きて見に行こう!」

 

天使「人の努力を笑うものではありません。しかし起きるべきです」

 

 こういう指図を受けると、やる気が無くなる。せっかくやろうと思っていたのに。布団のぬくもりが幽かに感覚化してくる、意識の浮上が始まる。まだ寝ていたい気持ちがよぎる。イルカの目覚まし時計が鳴る。「キュエー!キュエー! ザバーンザザー」「キュエー!キュエー!」

 

 天使も悪魔もイルカも起きろと催促してくる。だんだんとイルカの声が大きくなってくる。波の音が近づいて、潮の匂いを感じる。イルカの声が立体交差的に夢の中を駆け回ると、既に辺りは海になっていて、高度3000mから水面に放りだされる!

 

 と思った瞬間に脚は布団を蹴り上げて、這う這うの体で時計の息の根を止めた。朝から脳に相当のダメージを負ったので、そのままもう一度眠りに就いたのだと思われる。

一月十三日

 健康な日は、昨日一日で終わった。確固たる決意もどこ吹く風、今朝は10時ごろに目を覚ました。今晩こそは、「健康への道」の遅れを取り戻すために、健康な時間に寝てみせる。早寝をし、然るべき早起きをしようと考えている。しかし、物事の根底には(とりわけやらない人に多い理由で)モチベーションが大きく関わっている。早起きには早起きの為のモチベーションが不可欠なのではなかろうか、そこに私の健康の鍵が握られているのではなかろうか、と思い付く。気になるともう眠れなくて今夜も夜更かしをしてしまう。

 

 目標を成し遂げるときに、その原動力となるのはご褒美であったり、行為に対するメリットであったり、十人十色のモチベーションがあるのだろう。私の場合、早起きをメリットが、「ねむい」「さむい」「まぶしい」の三重苦を上回るかどうか。これに懸かっている。例えば、朝食が毎日ステーキや海鮮丼であれば、早起き出来るかと言われると、実に悩ましい。初めのうちは匂いに釣られて起きる自信があるが、一週間も経たないうちにそれらの魅力が半減する未来は想像に難くない。

 

次に早起きそのもののメリットに目を向けてみると、時間の有効活用に興味を惹かれる。いわゆる成功者(私にはこの意味が未だに不明瞭。偉人の定義も然り)を自称する方々の発信する情報によると、早起きは三文の徳があーだこーだ、科学的根拠も確りしていて、とてもイイ感じらしい。ただ、昨日は早めの起床を成功したのにかかわらず、数時間炬燵でのんべんだらりんと過ごしたことを告白したい。こういうぐうたらした精神性から、有意義な人生とかそういう次元にない気がしてきた。

 

 自分で折り合いをつけて、逃げ道を拵えているのが身に染みて分かる。死ぬまでに直したい悪癖の一つだ。

 

 はて、困ったと頭を悩ませていると、私が持つ唯一の特権に気が付いた。学生の身分であるので、私には出勤する必要が無い。出勤の時間に合わせて散歩をするのはどうだろうか。出勤の止むを得ない方々のトボトボした歩みを眺めることは、私の思いつく限り、最高に悪魔的な愉しみである。醜い心の持ち主に成ってしまったことを自覚するが、毎日の愉しみを繰り返すうち、習慣付くことを願いたい。少なくとも、将来遅刻することはなくなるだろうから。

一月十二日

 朝はお腹が減って目が覚めた。確か8時ごろには床を出たと思う。朝日を浴びて始まる朝は綺麗なものだ、と単純な感想が出てくるのも早起きの美点かもしれない。

 

 不安を伴う世間の情勢があり、そのためにせめて健康な毎日を生きようという家族からの要請があった。こういう人情で一致できる点で、我々家族は幸せといえるだろうと思った。私もせめて朝食は一緒に食べようと、(人間的に常識的な時間に)起きることを決心した。不摂生を極めた2020年の夜明けである。朝食を決まった時間に食べるだけで健康と言えるか!という喝が飛んできそう、むしろ喝を入れていただきたいが、今確かな一歩を踏みしめているのだ。

 

 そういえば2020年はオリンピックイヤーであった。森喜朗氏は未だに開催するつもりであるだろうが、凡そ無理な相談である。ただし、オリンピックという一大イベントの運営に係わる方々にも生活があるので、今更中止することは出来ない。非常に難しい問題である。オリンピックに先立ち運動を習慣とする方々も増えていたようだし、運動による幸福感の増大にも向けられていたので、日本全体が明るい方を向いていた気がするが、こうなっては仕方が無い。同じ方向を向くと言えば、こういう世界的危機に陥ったときくらいは一致団結するのが人間かとおもっていた。また一つ現実を教えられてしまった。せめて恵方巻の時にでも、皆で同じ方向を向くがよい。ちなみに恵方巻は一地方の民間伝承かなんかで、信じる気は毛頭ない。2021年は良い年になる予感がする。

 

 お腹が空いて起きたわけだが、今日のそれはいつもと一味違った趣のある、ちくちくとした空腹だった。普通は大なり小なり空腹の種みたいな空虚が自然発生する内臓の働きである。これを繰り返しているうちにだんだんとフラストレーションが溜まっていき、食事に向かうエネルギーとなる。一日あたり三回程空腹の虫が鳴く。しかし、昨日会ったときは胃を攻撃するような虫ではなかった。

 

 この不調の原因として、最初に思い当たったことは健康上の理由である。2020年の不摂生が祟った形で、今日の朝に発現した生活習慣病ではないだろうか。一年間に渡って繰り返された体へのダメージは、贔屓目にみても怠惰すぎる。自傷行為にも相当する程の生活を送っていたことが、今朝こうして生活習慣病に現れたのである。本当の親不孝とはこういうことを言うのではないだろうか。健康に生きることを決意したその当日に、病気が発覚したことは不幸である。いや、それこそ幸せともいうのかもしれない。早期発見に越したことはないし、健康とは何たるかを考える薬になるから。

 

 もう一つ脳裡に閃いた原因が、エビを食べたことにある。昨日はエビを食べた。大量の刺身用赤エビが投げ売りされていたので、衝動的に買ってしまった。脳の処理機能がバグっていたのかなんなのか、見た瞬間になんだかおめでたい気持ちになってついつい買ってしまった。半分を刺身で、もう半分を茹でて美味しく食した。食べ終わった後、ミソの詰まった頭を見て、どうにかこれも食べてやりたいという気持ちになった。こういう時の私は、調べるのが早い。塩をまぶしてカリカリになるまで焼くと、スナックのように香ばしくなるらしいので、時間をかけて丁寧に焼いてやった。アツアツがザクザクとして梅沢レモンサワーがすすむすすむ。ラベルに載っている本人の肖像も、いつもより喜んだ顔に見えた。二品作れる量のエビの頭を焼いて、それを平らげたということはそれだけお腹の中身はとげとげで一杯になっている。痛いのも当然っちゃ当然だけどな、ガハハ!

 結果、朝になって収縮した胃の中には消化の間に合わない甲殻類トゲトゲで満たされているので、当然痛い。腹の虫は、別の虫みてえな顔した奴に侵略されて、空腹のメカニズムもおかしなことになった。以上のことがチクチク空腹事件の真相だと思われる。

一月十一日

 日本語で成人とは大人の事であって、大人とは成人した者のことである。

余程、面倒くさい人間に問いかけない限り、これと同じか類する返事が返ってくると思われる。

ちなみに、私も例によって面倒くさい連中の一人であるから、「成人」とは即ち大人であるとは認めたくない。

人に成る、と書いて「成人」。

20歳に満たない人間は人ではなく、化け物か何か得体のしれないものなのだろうか、それがだんだんと人間性を形成していって、社会に適合できる肉体と精神を完成させていくのだろうか。

大人が社会に在る自然状態で、子供は体は小さいが大人と同等に扱われるとはどこの国のの話だっただろうか・・・

 

 しかし今や私も20歳を超え、いまに定職に就こうとしていることは、喜ばしい。

偉い。偉い。昨日も今日もイナズマイレブンを見たが、ノスタルジーに浸る瞬間も、大人を大人たらしめる一要素であると、私は考えている。

 

大人とは何ですか、という問いに対して、私は一つ答えを持ち合わせている。

懐かしさを感じたら大人。

相対的に大人。

社会の尺度に「子供だなあ」と言われたら、それはそれ。

あの日より大人になったので、大人。

 

 

弟が間もなく大学受験をするそうなので、エールを送ることにした。

具体的には、湯島天満宮に祈願をすることになった。

外出の免罪符が、どこからともなく舞い込んできた気がするので、行くことにした。

 

湯島天神は、学問の神として一般に認知される菅原道真を祀っているそうで、合格祈願に訪れる人が多い。

屋台も軒を連ねていたのだが、さすがにそれは自粛しろと思い、手切れ金代わりにイカ焼きを買ってやった。

イカ焼き売りのお姉さんには、私の意図が伝わるようにしっかりと目くばせをしておいたので、恥じ入り店を畳んだであろうことは間違いない。

外出自粛が叫ばれる、昨今の情勢でこの賑やかさに心の晴れるものも少し感じたが、医療従事者はじめに対策のことを考えると難しい。

神様ならどうするだろうか。

少なくとも、私が菅原道真であれば、雷神に成り戻り一帯の屋台を焼き払うだろう。

彼は、一時は悪神として恐れられている時期もあったのだ。鎮魂思想が蔓延し、様々な思想が習合した結果、いまの学問の神という立場に収まったのだが、それについても複雑な心境でいやしないだろうか。

我々が彼の苦悩を忘れ、勝手な合格を願うことは、あまりに現金すぎやしないか。

 

菅原道真の気持ちについて、しばし妄想が高まると、弟にそれを伝えずにはいられなくなり、彼は面倒くさそうに聞いてくれた。

そして、菅原道真はどのような絵馬を書けば、願いを聞き届けてくれるだろうかという疑問について話し合いをした。

議論はそこそこに白熱し、「弟の学問への熱意を前面に押し出すのが良い」との結論に至った。

一字一句を丁寧に書いて絵馬を用意する姿に、弟の成長を感じた。

私はこういう場面でも走り書きをしてしまうので、あらゆる点で精神年齢が低いと言えるかもしれない。

絵馬には、数学を修めるために〇〇大学に行きたい、ゆくゆくは教員になるのも良いかもしれない、という将来への熱意が書いてあった。

吾が弟ながらあまりに感動した。また、他に良い絵馬があれば見たい!という気持ちが家族で一致した。

 

しかし、内輪の盛り上がりなどは社会の流れに逆行するので楽しいのである。

とりあえず隣の絵馬を見てみると、〇〇大学合格!!という横書きの文字が(きっと)志望順に並んでいたので、どうにもガメツイ人が書いたように思ってげんなりしてしまった。

菅原道真もきっとげんなりするんじゃないかなぁ。

これもまた勝手。

いまはもとより

小学生の頃だったか幼稚園の頃だったか、デュエルディスクを買ってもらったことを覚えている。

自分では物をねだるような性格でなかったからか、夢のように嬉しかったことを覚えている。

父も母も、私のことをよく見てくれているのだと、そういう愛情のあらわれに生きていることの喜びを感じた。

ちょうど何年も前のクリスマス、遊戯王のカードを集めることに熱心になっていた時期で、枕元にプレゼントとして用意してくれていたのだった。

はっきり覚えていることは、そのまま発熱してデュエルディスクを抱えたまま父が病院へ連れて行ってくれたことと、同梱してあったパックからE・HEROスチームヒーラーとアームドドラゴンLV10が出てきたこと。

海馬社長の言う通り、剣と書いてカードと読むので、当時の私の精神的支柱は遊戯王にあったのだろう。

今もエフェクト・ヴェーラーと神の宣告を持ち歩いて生活をしている。むしろ今の方が遊戯王に支えられて生きているかもしれない。

 

 10歳に満たない子供はかわいいもので、強かろうが弱かろうが自分のカッコいいと思うデッキを作るのである。

ましてや自力で揃えたアームドドラゴンにはとても愛着がある。アニメに登場したカードに憧れて、それをデッキに加えてみたりした。

そういう純粋な楽しみ方はいつしか忘れてしまって、勝つことに拘り始めたのは小学校の高学年くらいからだったと思う。

強いカードを買い集めて、他人を負かすことは何よりも楽しいことであったから。

 

 当然のことだけれど、強いカードは高い。

高いけれど、勝つためには必要なカードばかりである。

大抵の遊びは突き詰めるとお金がかかるように出来ているから、穿った目で資本主義社会の手垢が浮かぶ。

SNSに見透かされたように、人間の根本原理には「比較」の悪徳があって、その辺りには富が集中するようにうまいこと出来ている。

際限なく、欲しい欲しいの気持ちが湧き出てくるのが、心地悪い。

ただし、「足るを知る」のも寂寞として、諦念に近い響きを持つ。「足るを知る」というのは資本主義の中で、最も美徳に近い悟りでありながらも、真の満足(或いは幸福)に二度と到達できない事実と表裏一体の関係にある。

 

「足るを知る」について思ったことは、ヘッセの『幸福論』を読んだ時に思い起こされた感覚と似ている。

幼少の頃にあった純粋な心の形は幸福を受け取るように出来ていて、大人になるにつれてだんだんと世界を生き抜く形に叩き直される。

ヘッセの言う「黄金の痕跡」や「不滅なものの笑い」は、二度と同じ形で我々の前に現れることはないのだけれど、せめてもう一度その輝きの端に触れたいと思って。

かえりみち 続くやつ

用事があった。

私は友人に誘いを断られるとき、「俺用事があンだよね」と言われるのが心底嫌であるが、あえて用事があったと言いたい。

その「用事」は大学生活を締めくくるような、禊のような、この先の人生でもふとしたときに脳裏を掠める奇妙な体験であった。

それは全くの新しい人間関係の構築で、今の自分にはとても大事に出来そうもない、血の通わない対人交流である。

しかし常識というものは良し悪しあれど、絶えず変化するもので、これからの時代は直接会うこともせずに信頼を勝ち得ることのできる社会なのだ。

気持ち悪いが、どこか気が楽になったかもしれない。

心の表面に生コンクリートが流し込まれて、感情の身動きがとれない苦しさは、次第に割り切れてすっきりとした気持ちになっていく。

四角く整った硬い音のする心は、多分、昔の葛藤を覚えていない。

我々の文明はそろそろ大気圏の外へ飛び出したいとうずうずしているのに、我々の精神生活は衰退の一途を辿る。

今日の「用事」はそういう加速する時代の1ページ目に当たる気づきのようなもので、オンライン云々自体が直接的な原因なんてことは決してない。けれど、私の寂しさはステレオタイプにして、時代のせいにしたい。

 

 こういう寂しいふり、思わせぶりな態度をとる人間なので、突き詰めると悩みが絶えない。

逆に言えば、突き詰めなければ悩みが悩みでなくなる。

言っていることの九割五分さっき思いついた話なので、もう一度同じことを話すことが出来ない。

よくこんないい加減な生き方で気の良い友人たちに恵まれ、鬱にもならず生活しているものだと感心する。

考え方ひとつで人生どうにでもなる、むしろどうにでもなれと思っているのかもしれない。

しかし、世知辛いことにどんな人にでも最低限のお金は我々を取り巻く問題である。こればかりは、考え方の余地を挟むこともままならない。

先の用事について、私はなるべく家を出たくなかった。

どうしてかと言うと、くどくど述べていた心のあーだこーだなどは本当にどうでもよいことで、ただただお金が無かったからである。

私の通っている大学は山の辺りにあるので、交通費がどうしても手痛い出費になって、また昨今の事情で通学定期も買っていないのでどうしたもんか、と悩んだ。

世俗的にも、金銭的にも、肉体的にも、外出自粛を求めてやまなかったが、私には家を出なければいけない事情と恩義があった。それは私の所属しているゼミに関係している。

 

つづく

焼きたて!ジャ肉 第一話

焼肉を愛した人生だった。

付け加えるとすれば、誰かの焼いた肉が美味しい人生だった。

焼いてもらった肉は美味しい。

私は無心で肉を味わうのが好きだし、私の友人は気遣い屋で拘りが強い人ばかりであるから、需要と供給がマッチしていることも、この甘えた考えに拍車をかけた。

私は他人への配慮が欠けた拘りの強いことを自覚している。

もし、自分でトングを持つのであれば、脂の少ない肉からでないと気が済まないし、まったりとした部位は最後に少し食べるくらいで丁度よい、と考えて(私にとって)適切な配膳を施すだろう。

私には肉奉行の気持ちがよく分かる。

要するに彼らは、食べ物のポテンシャルを最大限引き出すことに全身全霊を懸けていて、それは相手に美味しく食べてほしい気持ちであったり、牛豚への感謝に由来していたりする。

分かってほしいとは思わないが、美味しいと言ってほしいのである。

私の場合は、この「美味しい」を聞きたいがために焼き手に回ることが恐ろしくなった。自分の焼いた肉が焦げていたら。私が食べる為に解体された動物を思って最高の焼き加減にしなければ。食中毒を防ぐためにも火を確りと通さなければ。

七輪から聞こえる炎の音が恐ろしく、地獄の窯に通じているとさえ思った。

こうして気が付けば、味覚もままならなくなり、そのうちにお腹がいっぱいになっている。

肉焼き師の突き当たる宿命、大いなる壁。これに心を折られてトングを手放すのであった。私も有象無象の肉焼き師が辿る運命の例に倣って、トングを置いた一人であるが、焼肉への愛の炎は遂に消えなかった。