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マルタ騎士団の失われた財宝

 オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンという小説家がいる。彼は象徴主義(勿論この語で言い表せる程明快なものではない)を代表するフランス人作家で、『未来のイヴ』という作品にアンドロイドという語を初めて用いたことで知られている。

 

彼はフランスの名家の出であるのだが、尊属の散財によって赤貧に喘いで生きた。

 

特に父は、マルタ騎士団の財宝を探し求めて、フランスのサン=カンタン地方の土地を買いあさり、結果何も得られることなく財産を浪費したという。

 

この財宝はフランス革命中に埋められた、というソースのよう分からん話がWikipedia様に乗っており、興味が湧いた。

 

財宝の正体が何かについて調べたい。

 

が、図書館に行く程ではない。

 

 

 

 

 そも、マルタ騎士団とは中世ヨーロッパ三大騎士団の1つで、唯一現存しているカトリック修道会の騎士団である。

 

正式名称をエルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会といい、聖地エルサレムに巡礼する人々の為、医療奉仕を目的として設立された。

 

やがてイスラム勢力との抗争のために、十字軍の戦いに加わったことで、騎士団としての在り方が確立していく。

 

ちなみに、マルタ騎士団は住処を転々としている。

1522年 スレイマン1世率いるオスマン帝国によりロドス島が陥落。マルタ島へ移動。

 

1798年 ナポレオンの侵攻により、マルタを追われる。

 

1822年 ヴェローナ会議にて、領土を喪失しつつも国際法上の主権実体として認められる。

 

1834年 本拠地をローマに移すことを決定。

 

 

 マルタ騎士団と財宝、リラダンとの関係について特筆すべきことが2つ。

 

まずは、1565年に勃発したマルタ包囲戦と前後の出来事について。

 

マルタ騎士団スペイン帝国オスマン帝国が対立した戦い。1565年5月18日~9月11日にかけてマルタ島にて戦争が行われ、スペイン帝国の勝利に終わる。

 

この時のマルタ騎士団総長がフィリップ・ヴィリエ・ド・リラダンという。

 

1530年10月26日に総長のフィリップ・ヴィリエ・ド・リラダンと配下の騎士たちが、マルタ島で現在のグランドハーバーと呼ばれる港に到着して移行、マルタ騎士団との名前でよばれることとなる。(諸説あり)

 

フィリップ自身は、聖ヨハネ騎士団のラングエ・オーヴェルニュの代表として、ロドス包囲戦を指揮し、敗北後も騎士団を率いてマルタ島への移転を行った。

 

彼の戦績を詳細に確認したい。

 

1521年、リラダングランドマスターに選出され、翌年にオスマン帝国からのロドス島侵攻を受ける。1523年1月1日には退去の決断を済ませ、クレタ島へ移動した。

 

そののち、リラダンは騎士団と共に、最初に立ち寄ったクレタ島からメッシーナ、ヴィルテルポ、ニースへと移動を続ける。

 

1530年にカール5世からマルタ島・ゴゾ島・北アフリカトリポリを割譲される。

 

11月13日に正式にマルタ島の領有を宣言し、首都イディムーナの銀の鍵がリラダンに渡った。なお、騎士団は海岸沿いの町ビルグに居を構え、実質的な首都とした。

 

聖アンジェロ砦を要塞兼宮殿とするなど、町は要塞化され、次第に出身国別の騎士館が建てられていった。

 

騎士団の出身地は、言語別・習慣別にプロヴァンス・オーヴェルニュ・イタリア・カタラン(アラゴンカタルーニャ・ナバーラ)・イングランド・ドイツ・ポルトガル・スペインの8つに大別することが出来る。

 

騎士団はマルタ島に定着していったが、同時に1565年のマルタ包囲戦まではあくまでもロドス島の奪還を思っていたという。

 

これらがフィリップ・リラダンマルタ騎士団総長を務めていた間に、起こった出来事の概略である。

 

ところで、リラダン家系図は見つからなかった。いくら我らがネット・オーシャンの広大無辺を想えども、やはり限界はあるようだ。

 

そのために小説家リラダンと総長リラダンとの血縁関係を現時点で断言することはできないが、松岡正剛氏の953夜には、なんかそれっぽいことが書いてあったので、多分あってる。ちゃんと調べたいと思います。

 

ちなみに1534年8月21日に死去。ラバトの聖母降誕教会で没し、聖アンジェロの聖アンヌ聖堂に葬られた。16世紀後半に、バレッタの聖ヨハネ司教座聖堂に改葬された。

 

 次に、革命中のフランスとマルタ島との関係について。

 

1798年6月に、フランス第一共和政の将軍であるナポレオン・ボナパルトがマルタを征服した。

 

マルタ島に上陸したフランス軍に対し、当初は聖ヨハネ騎士団武装したマルタ民兵がわずかな抵抗を行ったものの、一日足らずで征服を完了させた。聖ヨハネ騎士団は要塞に籠って抵抗を続けようとしたが、騎士団内のフランス人やマルタ住民の反発が大きくなり、最終的に降伏を決めた。

 

 マルタ征服の背景として、騎士団はイスラム教徒との戦いが下火になるとともに衰退していったという。

18世紀になるとその活動は時代おくれとなり、騎士団は団員(おそらく貴族の子息が多い)の大部分の出生地であるフランスに依存するようになった。

 

しかし、フランス革命の勃発により後ろ盾を失い、1792年には深刻な財政難に陥った。

 

対外的には、ヨーロッパの諸大国が地中海の中央に位置した戦略拠点として、マルタ島を欲していたと考えられる。

 

なんやかんやあって、6月12日、ナポレオンと騎士団の代表団は、「騎士団がヴァレッタと諸要塞を降伏させてマルタの支配権をフランスに譲渡する」と言う協定に同意した。フランス側は総長に代償として公国をあたえること、騎士やマルタ人の私有財産を尊重することを約束した。

 

聖ヨハネ騎士団総長と騎士の大部分は、降伏した数日後に、聖遺物や聖像などの動産とともにマルタを後にし、ロシア皇帝パーヴェル1世に庇護されることになったという。

 

以上、Wikipedia様の記述を参考に纏めた。

 

理論の跳躍的思考を用いて、無理矢理つなげ合わせるのであれば、これらリラダン氏は全員血縁関係にあって、マルタを追われた際に持ち出した「聖遺物」が財宝にあたるということだろうか。

 

リラダンの血縁関係、聖遺物の正体、サン=カンタンという土地と騎士団の関係。

 

結局図書館に行かなければ分からないことの方がおおいね!!!

 

参考文献はWikipedia様、来世はきちんとする。