お疲れサーマント

黄巾族さん向けに書いています

四月かどうかに関わりなく

  四月一日の午前中だけは、嘘を吐いても良いというルールが罷り通っているので、「働きたくない」とは死んでも言えない。

 

 しかし、目先の苦痛に眼前を覆われている我々新社会人は、今日がエイプリルフールであることなんて、念頭にある筈もないでしょう。

 

 地獄の始まり、社会への隷属、万年平社員・・・

 

 様々、私を待ち受ける洗礼を想像すると、恰も体験してきたような光景が苦痛を伴って脳裡にフラッシュします。

 

 それこそ今が走馬灯を見ている最中なのではないか、と錯覚するほど・・・現実と虚構の区別がなくなるほどです。

 

 これはエイプリルフールの魔力によるものなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

二十一年 三月二十八日

 文章を上手に書きたい、という願望があったとして。

 

 なにか伝えたいことが無くても良い。

 

 近頃はもう、頭の中がぐちゃぐちゃで、机の上もそれを投影したように物がとっちらかっている。

 

 財布

 

 『美味礼賛』の上巻(ブリア=サヴァラン)

 

 『心理学と錬金術』(ユング

 

 青いボールペンが五本

 

 ヒラメ釣りに使ったときの重り(100って書いてある)

 

 上から順番に、全て要るものである。

 

 特に、ヒラメ釣りの重りは、思い入れの強いものであることを、主張しておかなければならない。

 

 当時の私はヒラメ釣りの初心者であったから、右も左も分からぬまま漁船に乗り込んで、極寒の中で若干の後悔に打ちひしがれていた。

 

 右には私を釣りに誘った釣部釣男が座っており、彼の指南により伝説のフィッシャーマンへと成長する筈であったが、釣り糸の結び方だけを丁寧に教えるにとどまった。

 

 左には釣りに青春を捧げたまま大人になったような初老の男性が竿を構えている。

 

 雨に始まり雨に終わった今回の釣りは、歴史的な不漁であったらしい。

 

 左右はイライラが止まらず、貧乏揺すりをはじめ、船の上下運動と相まってある種独得の波動をうみだした。

 

 ハーバード大学の研究によると、この波動が魚を遠ざける原因の一つであるとしていて、釣り糸や重りから海中へと伝播していくものらしい。

 

 とにかく、そういう事情があって釣り糸を結ぶことしか出来ないフィッシャーマンが誕生した。

一月十五日

 学校へ行って、授業を受けて偶にサボって、帰りに馴染みの居酒屋に寄って、毎日楽しく過ごしておりました。

 

 それが今では駅前を散策するか、自転車を使っての遠出程度に留まる生活を送っています。それはそれで良いこともありますが。

 

 気分の落ち込みやすいのは時代柄でしょうから、しばらくは明るく快い日々を送ることに努めます。こればかりは意識していきなければいけません。

 

 日記を習慣付けようと毎日徒然なるままに、アウトプットを繰り返しております。また、ごく親しい友人宛の生存確認としてこれを書いているわけですが、そもそも彼の生存が確認出来ないことには、宇宙を身一つで彷徨うような寂寥感を拭えません。

 

 「日記」というのは、その日に起こったことを書くわけですが、毎日が毎日その友人に報告するような面白いことがあるなんて夢を見てはいけません。もし何気ないことでも、彼の笑いを誘いたいのであれば文章の上達を図るのがよいでしょう。もし何か面白いことを求めているのならば、止めどなく行動するのがよいでしょう。充実した様子を報告したいのであれば、予め明日の日記を書いておいて、その通りに行動するのがよいでしょう。

 

 敬愛する大人たちの言う「なんでもいいから試してみな」は、つまりこういう精神だと思うのです。

一月十四日

 私はイルカの声が鳴る目覚まし時計を持っている。大学の友人から貰ったものだが(何故かお金は徴収された)、以前使ってあまりに寝ざめの悪い朝を経験したために、倉庫にしまっておいたのだ。イルカの超音波が再現されているのか、何なのか。恐らく脳に多大な影響を及ぼしているに違いない。見ていた夢が海に関連した夢に塗り替えられていく感覚が恐ろしくて目を覚ます。そして鳴りやまないイルカの声がずんずんと音量を増していって、精神的な不安の臨界点に達した瞬間にガバと布団を蹴り上げて起きるのである。三日試して三日とも同じ起き方をしたので間違いがない。ノイローゼになってしまう。これじゃあ、明日の朝に目覚ましを止めるまで寝られない!と、倉庫へ仕舞い、厳重な封印を施したのであった。

 

 しかし、早起きの習慣を身に付けるために、イルカ時計ほどうってつけのものはない。朝六時半にアラームをセットして、期待と緊張、大分のトラウマを胸に眠りに就いたのであった。

 

 手短に言うと、早起きに失敗した。厄介な青色の目覚まし時計が床に投げ出されていたことから、一度は目を覚ましたことが伺える。なんとなく記憶の断片を繋ぎ合わせると、以下のような夢を見ていたに違いない。

 

 「私は切ない通勤者の背中を見届けるために、早起きする決心に燃えている!結果として、健康に繋がれば一石二鳥である!」私は昨日の日記の通り、斜に構えた決心で起きる準備があった。しかし夢の中は不自由なもので、意識がはっきりしていても外界に飛び出す手段は持たないことが多い。つまり明晰夢である。陰影を伴った夕焼けの、不安なグラデーションで満たされたような奇妙な空間で、ぼけーと朝が来るのを待っていた。やがて、グラデーションの暗さが取れてきたことで、直観的に朝が来たのを感じた。もう少しで起きられると確信した瞬間に、天使と悪魔が囁いた。

 

悪魔「辛い出勤に苦しむ会社員のとぼとぼした行進は見ものだ!さっさと起きて見に行こう!」

 

天使「人の努力を笑うものではありません。しかし起きるべきです」

 

 こういう指図を受けると、やる気が無くなる。せっかくやろうと思っていたのに。布団のぬくもりが幽かに感覚化してくる、意識の浮上が始まる。まだ寝ていたい気持ちがよぎる。イルカの目覚まし時計が鳴る。「キュエー!キュエー! ザバーンザザー」「キュエー!キュエー!」

 

 天使も悪魔もイルカも起きろと催促してくる。だんだんとイルカの声が大きくなってくる。波の音が近づいて、潮の匂いを感じる。イルカの声が立体交差的に夢の中を駆け回ると、既に辺りは海になっていて、高度3000mから水面に放りだされる!

 

 と思った瞬間に脚は布団を蹴り上げて、這う這うの体で時計の息の根を止めた。朝から脳に相当のダメージを負ったので、そのままもう一度眠りに就いたのだと思われる。

一月十三日

 健康な日は、昨日一日で終わった。確固たる決意もどこ吹く風、今朝は10時ごろに目を覚ました。今晩こそは、「健康への道」の遅れを取り戻すために、健康な時間に寝てみせる。早寝をし、然るべき早起きをしようと考えている。しかし、物事の根底には(とりわけやらない人に多い理由で)モチベーションが大きく関わっている。早起きには早起きの為のモチベーションが不可欠なのではなかろうか、そこに私の健康の鍵が握られているのではなかろうか、と思い付く。気になるともう眠れなくて今夜も夜更かしをしてしまう。

 

 目標を成し遂げるときに、その原動力となるのはご褒美であったり、行為に対するメリットであったり、十人十色のモチベーションがあるのだろう。私の場合、早起きをメリットが、「ねむい」「さむい」「まぶしい」の三重苦を上回るかどうか。これに懸かっている。例えば、朝食が毎日ステーキや海鮮丼であれば、早起き出来るかと言われると、実に悩ましい。初めのうちは匂いに釣られて起きる自信があるが、一週間も経たないうちにそれらの魅力が半減する未来は想像に難くない。

 

次に早起きそのもののメリットに目を向けてみると、時間の有効活用に興味を惹かれる。いわゆる成功者(私にはこの意味が未だに不明瞭。偉人の定義も然り)を自称する方々の発信する情報によると、早起きは三文の徳があーだこーだ、科学的根拠も確りしていて、とてもイイ感じらしい。ただ、昨日は早めの起床を成功したのにかかわらず、数時間炬燵でのんべんだらりんと過ごしたことを告白したい。こういうぐうたらした精神性から、有意義な人生とかそういう次元にない気がしてきた。

 

 自分で折り合いをつけて、逃げ道を拵えているのが身に染みて分かる。死ぬまでに直したい悪癖の一つだ。

 

 はて、困ったと頭を悩ませていると、私が持つ唯一の特権に気が付いた。学生の身分であるので、私には出勤する必要が無い。出勤の時間に合わせて散歩をするのはどうだろうか。出勤の止むを得ない方々のトボトボした歩みを眺めることは、私の思いつく限り、最高に悪魔的な愉しみである。醜い心の持ち主に成ってしまったことを自覚するが、毎日の愉しみを繰り返すうち、習慣付くことを願いたい。少なくとも、将来遅刻することはなくなるだろうから。

一月十二日

 朝はお腹が減って目が覚めた。確か8時ごろには床を出たと思う。朝日を浴びて始まる朝は綺麗なものだ、と単純な感想が出てくるのも早起きの美点かもしれない。

 

 不安を伴う世間の情勢があり、そのためにせめて健康な毎日を生きようという家族からの要請があった。こういう人情で一致できる点で、我々家族は幸せといえるだろうと思った。私もせめて朝食は一緒に食べようと、(人間的に常識的な時間に)起きることを決心した。不摂生を極めた2020年の夜明けである。朝食を決まった時間に食べるだけで健康と言えるか!という喝が飛んできそう、むしろ喝を入れていただきたいが、今確かな一歩を踏みしめているのだ。

 

 そういえば2020年はオリンピックイヤーであった。森喜朗氏は未だに開催するつもりであるだろうが、凡そ無理な相談である。ただし、オリンピックという一大イベントの運営に係わる方々にも生活があるので、今更中止することは出来ない。非常に難しい問題である。オリンピックに先立ち運動を習慣とする方々も増えていたようだし、運動による幸福感の増大にも向けられていたので、日本全体が明るい方を向いていた気がするが、こうなっては仕方が無い。同じ方向を向くと言えば、こういう世界的危機に陥ったときくらいは一致団結するのが人間かとおもっていた。また一つ現実を教えられてしまった。せめて恵方巻の時にでも、皆で同じ方向を向くがよい。ちなみに恵方巻は一地方の民間伝承かなんかで、信じる気は毛頭ない。2021年は良い年になる予感がする。

 

 お腹が空いて起きたわけだが、今日のそれはいつもと一味違った趣のある、ちくちくとした空腹だった。普通は大なり小なり空腹の種みたいな空虚が自然発生する内臓の働きである。これを繰り返しているうちにだんだんとフラストレーションが溜まっていき、食事に向かうエネルギーとなる。一日あたり三回程空腹の虫が鳴く。しかし、昨日会ったときは胃を攻撃するような虫ではなかった。

 

 この不調の原因として、最初に思い当たったことは健康上の理由である。2020年の不摂生が祟った形で、今日の朝に発現した生活習慣病ではないだろうか。一年間に渡って繰り返された体へのダメージは、贔屓目にみても怠惰すぎる。自傷行為にも相当する程の生活を送っていたことが、今朝こうして生活習慣病に現れたのである。本当の親不孝とはこういうことを言うのではないだろうか。健康に生きることを決意したその当日に、病気が発覚したことは不幸である。いや、それこそ幸せともいうのかもしれない。早期発見に越したことはないし、健康とは何たるかを考える薬になるから。

 

 もう一つ脳裡に閃いた原因が、エビを食べたことにある。昨日はエビを食べた。大量の刺身用赤エビが投げ売りされていたので、衝動的に買ってしまった。脳の処理機能がバグっていたのかなんなのか、見た瞬間になんだかおめでたい気持ちになってついつい買ってしまった。半分を刺身で、もう半分を茹でて美味しく食した。食べ終わった後、ミソの詰まった頭を見て、どうにかこれも食べてやりたいという気持ちになった。こういう時の私は、調べるのが早い。塩をまぶしてカリカリになるまで焼くと、スナックのように香ばしくなるらしいので、時間をかけて丁寧に焼いてやった。アツアツがザクザクとして梅沢レモンサワーがすすむすすむ。ラベルに載っている本人の肖像も、いつもより喜んだ顔に見えた。二品作れる量のエビの頭を焼いて、それを平らげたということはそれだけお腹の中身はとげとげで一杯になっている。痛いのも当然っちゃ当然だけどな、ガハハ!

 結果、朝になって収縮した胃の中には消化の間に合わない甲殻類トゲトゲで満たされているので、当然痛い。腹の虫は、別の虫みてえな顔した奴に侵略されて、空腹のメカニズムもおかしなことになった。以上のことがチクチク空腹事件の真相だと思われる。

一月十一日

 日本語で成人とは大人の事であって、大人とは成人した者のことである。

余程、面倒くさい人間に問いかけない限り、これと同じか類する返事が返ってくると思われる。

ちなみに、私も例によって面倒くさい連中の一人であるから、「成人」とは即ち大人であるとは認めたくない。

人に成る、と書いて「成人」。

20歳に満たない人間は人ではなく、化け物か何か得体のしれないものなのだろうか、それがだんだんと人間性を形成していって、社会に適合できる肉体と精神を完成させていくのだろうか。

大人が社会に在る自然状態で、子供は体は小さいが大人と同等に扱われるとはどこの国のの話だっただろうか・・・

 

 しかし今や私も20歳を超え、いまに定職に就こうとしていることは、喜ばしい。

偉い。偉い。昨日も今日もイナズマイレブンを見たが、ノスタルジーに浸る瞬間も、大人を大人たらしめる一要素であると、私は考えている。

 

大人とは何ですか、という問いに対して、私は一つ答えを持ち合わせている。

懐かしさを感じたら大人。

相対的に大人。

社会の尺度に「子供だなあ」と言われたら、それはそれ。

あの日より大人になったので、大人。

 

 

弟が間もなく大学受験をするそうなので、エールを送ることにした。

具体的には、湯島天満宮に祈願をすることになった。

外出の免罪符が、どこからともなく舞い込んできた気がするので、行くことにした。

 

湯島天神は、学問の神として一般に認知される菅原道真を祀っているそうで、合格祈願に訪れる人が多い。

屋台も軒を連ねていたのだが、さすがにそれは自粛しろと思い、手切れ金代わりにイカ焼きを買ってやった。

イカ焼き売りのお姉さんには、私の意図が伝わるようにしっかりと目くばせをしておいたので、恥じ入り店を畳んだであろうことは間違いない。

外出自粛が叫ばれる、昨今の情勢でこの賑やかさに心の晴れるものも少し感じたが、医療従事者はじめに対策のことを考えると難しい。

神様ならどうするだろうか。

少なくとも、私が菅原道真であれば、雷神に成り戻り一帯の屋台を焼き払うだろう。

彼は、一時は悪神として恐れられている時期もあったのだ。鎮魂思想が蔓延し、様々な思想が習合した結果、いまの学問の神という立場に収まったのだが、それについても複雑な心境でいやしないだろうか。

我々が彼の苦悩を忘れ、勝手な合格を願うことは、あまりに現金すぎやしないか。

 

菅原道真の気持ちについて、しばし妄想が高まると、弟にそれを伝えずにはいられなくなり、彼は面倒くさそうに聞いてくれた。

そして、菅原道真はどのような絵馬を書けば、願いを聞き届けてくれるだろうかという疑問について話し合いをした。

議論はそこそこに白熱し、「弟の学問への熱意を前面に押し出すのが良い」との結論に至った。

一字一句を丁寧に書いて絵馬を用意する姿に、弟の成長を感じた。

私はこういう場面でも走り書きをしてしまうので、あらゆる点で精神年齢が低いと言えるかもしれない。

絵馬には、数学を修めるために〇〇大学に行きたい、ゆくゆくは教員になるのも良いかもしれない、という将来への熱意が書いてあった。

吾が弟ながらあまりに感動した。また、他に良い絵馬があれば見たい!という気持ちが家族で一致した。

 

しかし、内輪の盛り上がりなどは社会の流れに逆行するので楽しいのである。

とりあえず隣の絵馬を見てみると、〇〇大学合格!!という横書きの文字が(きっと)志望順に並んでいたので、どうにもガメツイ人が書いたように思ってげんなりしてしまった。

菅原道真もきっとげんなりするんじゃないかなぁ。

これもまた勝手。